オザキクリニック理事長

Dr.小﨑のエクセルエイジ入門

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小﨑 有恒

Author:小﨑 有恒
オザキクリニック理事長

  • 国際抗老化再生医療学会理事
  • 日本美容外科学会員
  • 日本美容皮膚科学会員
  • 日本臨床抗老化医学会会員
    (メソセラピー指導医)
  • 米国A4M会員
  • 米国ACAM会員
  • 胎盤医療研究会会員
  • サーマクール認定医
  • 日本再生医療学会会員
  • 日本臨床毛髪学会会員
  • 株式会社ジェネラス顧問
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2012/01/26

漢方を大きく発展させた意外な事実とは

男性の更年期障害の治療ポイントは、体内を若返えらせ生理バランスを整えることです。

今回は、「漢方」についてお話します。
オザキクリニック羽村院では、漢方薬の処方も行っております。

漢方は、心と身体のバランスを整えることで、自然治癒力と免疫力を高め、病気にならない体質をつくるという医学です。

原因がはっきりしない「疲労感」「イライラ」「頭痛」「よく眠れない」など、何となく体調が悪いという更年期特有の不定愁訴にも大変効果的です。

この漢方ですが、中国3000年の歴史というだけあり、その歴史は古く、始皇帝が不老不死の薬を求めて学者たちに研究させたことで大きく発展し、その後、西太后が美容術に進化させたことで完成したといわれています。

<漢方を発展させた始皇帝の知らざれるエピソード>
始皇帝といえば、万里の長城を建設したことでも有名です。当時の中国は、七国の君主すべてが王を名乗り、戦にあけくれていた戦国時代でした。そんな激しい世の中を統一した人物です。さぞかし身体が丈夫だったのだろうと思いきや、実は、虚弱体質で悩んでいたといわれています。そして、そのことから、学者たちに不老不死の薬(漢方)を研究させたのだそうです。

学者たちは、世界中に漢方薬を探し歩き、必死に研究を重ねました。しかし、研究はうまくいきません。なにしろ「不老不死」の薬ですから……。怒り狂った始皇帝は、460人もの学者たちを穴埋めにしてしまったそうです。なんとも残酷な話ですが、この命がけの研究があってこそ、漢方医療が飛躍的に発展したといわれています。

万里の頂上
始皇帝が建設したという万里の長城。このスケールの大きさからも、絶大な権力だったことがよく分かります。


<漢方の発展に貢献したもう一人の人物>
残酷さといえば西太后も負けてはいません。と、言いますか、彼女こそ残酷を象徴する第一人者ではないでしょうか(苦笑)

そして、彼女こそアンチエイジングの先駆けであり、漢方をさらに進化させた人物なのです。

西太后は、中国3大悪女の一人といわれています。残酷な逸話が多く、特に「皇帝の死後、ライバルである麗妃の手足を切断し、生かしたまま瓶に入れた」というエピソードは有名です。しかし、実はこれはフィクションだという説も強いようですね。実際はどうなんでしょうか。いずれにせよ、「普通のいい人」でひと括りにできるような人物ではありません。

この他にも「息子である同治帝の身重の后を、紫禁城内の京劇の舞台上に吊り上げ、落として殺した」「○○を生きたまま井戸に落として殺した」など、残酷な話は山ほどあります。同レベルのことはやっていたのではないでしょうか。

因みに前述の「ライバルの手足を……」を実際に行ったのは、中国3大悪女のもう一人・呂后だといわれています。呂后はライバルの手足を切断しただけでなく、目玉までくりぬき、便所で飼って「人豚」と呼ばせたそうです。そこまでやりますか?と疑いたくなる、なんとも恐ろしい話です。

西太后_2
西太后。極貧時代を想像できないほど優雅なたたずまいです。

残酷話はここまでにして、この西太后、実はかなり貧しい家の出身だったようです。

西太后の生い立ちは、はっきりとはしていませんが、これまでは、満州族の貧しい下級官吏の家に生まれたと言う説が有力視されていました。しかし「実は、もっと貧しかった」という新設が1999年に発表されています。それによると、西太后は、漢民族の貧しい農家の生まれであり、あまりの貧しさに4歳の時に他の漢民族の家に売られ、しかし、その家もおちぶれてしまったため、さらに12歳の時に、今度は満州族の下級官吏の家に売られてしまったというのです。二度も売られてしまったとは……!

しかし、ここからがすごいのです。「美しさが際立っている」という理由から、売られた先の家の養子に迎えられ、その後はトントントンと清の皇帝・咸豊帝の側室へ(当時16歳)。そして、21歳で男の子(同治帝)を生んでからは、後宮において皇后に次ぐ地位を得ました。さらに、咸豊帝が亡くなり、同治帝が即位してからは、背後から政治を操り、74歳で亡くなるまで事実上の皇帝として中国全土を支配したというのです。

紫禁城
西太后が暮らしていたという紫禁城。

因みに、西太后が纏足(てんそく)をしていなかった理由は、纏足の風習のない満州族の出身であったためといわれてきましたが、漢民族であるという新説からすると、「生まれた家は纏足もできないほど下層」だったということになります。

極貧時代から這い上がり、残酷な支配者となった西太后ですが、実は、自身の外見、美に並々ならぬ執着があったそうです。そのため、財力をフル活用して学者達に美容術としての漢方を研究させたといわれています。

次回は、西太后が愛用していた驚きの美容アイテムについてお話します。


漢方については、ぜひオザキクリニック羽村院へご相談ください。

〒205-0013
東京都羽村市富士見平1-18羽村団地24-1
0120-042-570

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